東京高等裁判所 昭和53年(ネ)1239号 判決 1981年2月19日
控訴人
深沢久吉
右訴訟代理人
佐和洋亮
外一名
被控訴人
東京都
右代表者知事
鈴木俊一
右指定代理人
吉田博明
外三名
被控訴人補助参加人
後藤雅文
被控訴人補助参加人
阿南邦生
右補助参加人両名訴訟代理人
山下卯吉
外五名
主文
原判決を次のとおり変更する。
被控訴人は控訴人に対し、六〇四万二四八八円及び内金五〇三万八六二五円に対する昭和四五年一月二二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
控訴人のその余の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審を通じ三分し、その二を被控訴人の、その一を控訴人の各負担とし、参加によつて生じた費用も第一、二審を通じ三分し、その二を被控訴人補助参加人らの、その一を控訴人の各負担とする。
この判決は第二項に限り仮りに執行することができる。
事実《省略》
理由
第一不法行為の成否について。
一<証拠>を総合すれば、次の事実を認めることができる。
1 控訴人は、昭和四五年一月二二日午後、質屋業訴外片岡好(店舗所在地町田市原町田四丁目一二番二三号)の土地買受けの用件で大和市鶴間の土地所有者のもとに二度にわたつて足を運び、午後一〇時ころ片岡方にもどつたところ、冷酒をサイダーのコップで二、三杯ふるまわれ、午後一一時ころ自転車に乗つて同人方を辞去したが、午後一一時二〇分ころ原町田四丁目八番一三号地先の交差点(片岡方前の道路と通称公民館通りとの交差点で、片岡方より一六〇メートル位の距離にある。)に現われた。そのとき、控訴人は酩酊しており、右交差点を横断しようとしたが、控訴人の自転車の進行を遮るように急速度で公民館通りを走行するタクシーとの衝突を避けるため、右方に転把して急制動をかけた。このため、控訴人は均衡を失い、公民館通りを南方国鉄原町田駅方向に一〇メートル位走行し、右道路の中央より右側付近(以下、「本件転倒箇所」という。)に自転車ごと転倒した。たまたま補助参加人後藤雅文巡査(当時の年令二〇才、警察官としての実務に就いたのは昭和四四年一二月九日であつた。同人が警視庁町田警察署原町田駅前派出所に勤務中であつたことは当事者間に争いがない。)は、強盗事件の緊急配備指令を受けて配備指定場所に赴くため公民館通りを前記交差点方向に歩行中、控訴人が転倒し、すぐには起き上れない状況を認め、かけよつて声をかけたが、控訴人が唸つており、かつ、酒臭も強かつたので、交通頻繁な道路上にそのまま控訴人を放置するのは危険であると考え、歩道上に誘導するため、控訴人のえり首をつかんで同人を起き上らせようとした。この後藤巡査の措置に対し、控訴人は、「うるせえ。何をするんだ。」といつて抗議し、本件転倒箇所付近の道路上において、後藤巡査との間でいい争い、もみ合いとなつた。その際、後藤巡査は控訴人に殴打されて、全治五日間を要する下口唇打撲傷を被つた。控訴人は生来発声、表現が不明瞭かつ早口で、しらふの時でもなかなか聞き取りにくく、興奮するといつそうその程度が強くなるうえ、叙上のような言動に出たため、後藤巡査は控訴人をでい酔者として保護する必要があるとして、国鉄原町田駅前派出所に控訴人を連行した。
2 ところで、前同日午後一一時三〇分過ぎころ右派出所に到達した後藤巡査からそれまでの経緯を聞いた右派出所勤務の補助参加人阿南邦生巡査(当時の年令二〇才、警察官としての実務に就いたのは昭和四四年二月二〇日であつた。同巡査が右派出所勤務であつたことは当事者間に争いがない。)が右派出所の見張所内で、控訴人に対し、「この酔払い野郎」と怒鳴りつけたので、控訴人が立腹し、「何を。」などと応答したことから、控訴人と阿南、後藤巡査との間で、再びもみ合いが始まつた。右もみ合いの間、控訴人が後藤巡査から左手を後ろにねじ上げられた状態にいたとき、阿南巡査が控訴人の手を引つ張り、椅子から立ち上りざま、膝で控訴人の胸部を二、三回激しく蹴り上げた。他方、控訴人も阿南巡査の右手第二指に噛みつき、全治五日間を要する咬傷を被らせ、これに対し、阿南巡査は警棒をもつて控訴人の左側頭部辺りを三、四回殴打した。このため、控訴人は転倒し、右派出所の控室に運び込まれたが、同所においても、後藤、阿南両巡査と激しくもみ合い、同日午後一二時ころ町田警察署に連行された。
3 控訴人は後藤、阿南両巡査の前記暴行により、左眼窩部、左第八、第九肋軟骨部打撲及び脳挫傷の傷害を負い、後遺症として、外傷性随液鼻漏及び外傷性臭覚麻痺の傷害を被つた。
このように認められ、右認定を左右するに足る適確な証拠はない。
二被控訴人は、「後藤、阿南両巡査はでい酔状態にあつた控訴人の保護に当つたものであり、控訴人の胸部を蹴り上げたり、警棒で控訴人を殴打するなど控訴人主張の暴行を加えた事実はない。両巡査のとつた行動は警察官職務執行法に基づく保護行為あるいは控訴人の公務執行妨害に対する同法に基づく制止行為であつて、正当な職務行為に属する。」と主張するので、以下に判断する。
1 控訴人はでい酔状態にあつたか。
<証拠>によれば、控訴人は昭和四五年一月二三日保護を解除された後、引き続き町田警察署において前夜の行動につき公務執行妨害及び傷害の廉で取調べを受けて、送検され、同年一一月二六日八王子簡易裁判所に対し傷害罪により起訴され(以下、「刑事事件」という。)、同裁判所において有罪の言渡しを受けたので、東京高等裁判所に対し控訴を申し立て(同裁判所昭和四七年(う)第二六一二号)、昭和四八年七月三日同裁判所から無罪の言渡しを受け、右判決は確定したが、捜査段階において、控訴人が司法警察員に対し、「事件当日は、町田質店で冷酒を大きなコップで三、四杯ふるまわれ、午後九時ころ同店を出、緑屋百貨店裏通りの酒類コーナーで冷酒四、五杯を飲み、自転車を押して同コーナーを出たときまでは記憶しているが、その後のことは断片的にしか記憶がない。当夜は一升以上の酒を飲んでいるとおもう。」旨供述していること、控訴人は検察官の取調べに当つても、「このときは一升以上の酒を飲んでいた。」旨供述していることが認められる。
しかし、(イ) <証拠>によれば、町田質店は片岡質店の西方約五〇〇メートル、町田市森野一丁目三八番にある別の質屋で、同店の道路を挾んだ向い側に緑屋町田店があること、町田質店及び緑屋町田店とも町田警察署からわずか二百数十メートルの距離にあることが認められ、したがつて前記司法警察員は町田質屋及び緑屋町田裏通りの酒類コーナー(それが実在するとして)の存在を知つていたものと推測されること、(ロ) <証拠>によれば、前記司法警察員は取調べの前夜宿直勤務をしており、控訴人が町田警察署に連行されてきたとき酩酊と興奮で暴れていた状況に当面していることが認められるから、同人は当該状況及び控訴人の前記発声などの特性から控訴人がでい酔状態にあつたと思い込んでいた可能性があること、(ハ) <証拠>によれば、控訴人は取調べの当日胸痛などを覚えていたことを総合すると、控訴人の司法警察員に対する前記供述は取調官の誤導、誘導的質問に迎合してしたものであるとの疑いがある。また、<証拠>によれば、控訴人は検察官の取調べに際しては、事件当日の飲酒量に関する供述を含む調書の内容を承認すれば、比較的軽い罰で済まされるものと安易に理解して、右調書に署名押印したものであることが窺えるので、控訴人の司法警察員及び検察官に対する前摘記の供述を記載した<証拠>はいずれも認定資料とすることができない。他に控訴人がでい酔していたことを認めうる証拠はない(もつとも、控訴人が刑事事件の公判において供述しているように、控訴人がほとんど酔つていなかつたということはとうてい首肯できない。すなわち、午後一一時ころ片岡方を辞去した控訴人がそこから一六〇メートル位しか離れていない交差点付近に午後一一時二〇分ころになつて姿を現わしたという前認定の経緯からすると、控訴人が片岡方を辞去した後、さらに他所で飲酒する時間的余裕があつたと推認されることと当夜控訴人を取り扱つた後藤、阿南両巡査その他の警察関係者の証言等及び本件転倒箇所付近の道路での控訴人と後藤巡査との悶着を目撃した者の証言等をあわせ考えると、前記一、1認定のとおり控訴人は相当酩酊していたものと判断するのが相当である。)。
2 両巡査の暴行について。
後藤、阿南両巡査が控訴人に暴行を加えたかどうかについては、前後にわたる経緯をも含めて双方の主張が鋭く対立し(原判決の摘示事実参照)、一方の当事者である控訴人は刑事事件の第一、二審及び本件の第一、二審を通じて、その主張に添う供述をし、他方の当事者である後藤、阿南両巡査は刑事事件の捜査段階、その第一、二審及び本件の第一審において、被控訴人の主張に添う供述をしている。そのいずれに信を措くべきかについて、当裁判所は、第一に、両巡査の暴行を目撃したという第三者の供述(供述記載を含む。)に信憑性があるか、第二に控訴人が被つた傷害の部位、程度が両巡査が加えたといわれる暴行と結びつくかという二点を主眼として吟味した結果、控訴人の供述を信用できるものと判断し、前記一、2のとおり両巡査の暴行の事実を肯認したものである。以下、右認定の根拠を略述する。
(一) 第三者の供述の信憑性について。
(1) 関野範三の供述
関野の刑事事件の第一審における証人としての供述を記載した<証拠>、これとほぼ同旨の本件の原審における供述は、ことがらの経過、内容に関し、それ自体なんら不自然、不合理な事項を含まない。なるほど、関野が「控訴人は阿南巡査の左手に噛みついた。」と述べている点は客観的に明らかな同巡査の受傷部位(右手第二指)に反するし、阿南巡査の警棒による打撲箇所について若干のあいまいさがあることを免れないが、関野の視認地点から見た、一、二分の間に起つたという激しいもみ合いに関する認識に右の程度のそご、不明確があることはやむをえないものというべきである。
<証拠>によれば、関野は控訴人が昭和三九年秋ないし同四〇年春ころ関野の実家の土地買受けを交渉したとき、売主側の代理人として応接したことがあり、また、本件後控訴人に対し洗剤販売の依頼をしたことがあつたこと(ただし、土地の件も洗剤の件もともに実現しなかつた。)が認められるが、関野が控訴人と右のような関係にあつたからといつて、同人の供述の信憑性を低く評価しなければならないものではない。
(2) 平塚健夫の供述
平塚の刑事事件の第一審における証人としての供述を記載した<証拠>もなんら不自然、不合理な事項を含んでいない。ただ、平塚のいう時刻(午後一〇時四〇分すぎころ)が問題であるが、これは同人の記憶違いないしいい違いであつて、尋問者がこれを追及しなかつたこともありえないわけではない。また、平塚が、控訴人が阿南巡査の指を噛んだ行為に言及していない点も、まさにその行為のいかんが主要な争点の一つであつた刑事事件の証人尋問であるにかかわらず、尋問が欠如したことによる可能性が大であり、そうでないとしても、平塚が一瞬の出来事であるという悶着の一こまである当該行為を見落したということもありえないことではない。そして、同人がことさら当該行為を隠しだてした形跡は窺えない。
<証拠>によれば、平塚は、「控訴人は平塚が以前牛乳販売をしていたときの顧客の一人であり、平塚は人づてに控訴人が刑事事件で起訴されていることを聞き控訴人を訪ねたところ、証人になることを要請された。」旨説明しているが、<証拠>によれば、平塚は控訴人と同様軍隊の経験があつて話が合い、相当以前から控訴人方に出入りしていたというのであつて、平塚の前記説明は不充分で、いささか不明朗なものを感ずるが、このことによつて平塚の供述の信憑性が全く損われるとすべきではない。
さらに、<証拠>によれば、平塚は控訴人の自転車に見覚えがあり、また、派出所から控訴人特有の声が聞えてきたので、警察官と悶着を起した当人が控訴人ではないかとおもい、帰宅後控訴人方に電話し、控訴人の妻清子から控訴人がまだ帰宅していないことを知り、やはり控訴人かとおもつたというのであるが、これは平塚が派出所で悶着を起した者が控訴人らしいと考えたが、事態が異常であるため、念のため電話で確認したものと理解すべきであり、必らずしも不自然であるとはいえないから、同人の右行動を根拠にその供述の信憑性を云々することは的外れというべきである。
(3) 岡田楯男の供述
岡田の刑事事件の控訴審における証人としての供述を記載した<証拠>によると、岡田は控訴人が阿南巡査に対し「抵抗らしいもの」をしたとは述べているが、同巡査の指を噛んだとは述べていない。この点が同人の供述の難点であることは否定できないが、先に(2)で説示したと同じ理由により、右供述の信憑性を低く評価すべきではない。
<証拠>によれば、岡田は本件当時控訴人方の近くに居住し、控訴人の妻清子とは宗教関係上の知合いであつて、その縁で控訴人とも知り合つたこと、同人は土地売買の件で控訴人の世話になつたことがあることが認められるが、その一事により岡田の供述の信憑性を疑うことは相当でない。
(二) 傷害の部位、程度と暴行との結び付きについて。
(1) 直接の傷害との結び付き
<証拠>によれば、控訴人は町田警察署から帰宅した昭和四五年一月二三日の夕方町谷原病院の訴外中西良孝医師の診察を受けたが、同医師は控訴人から「昨夜一一時ころ警察官に左胸部、左眼部を殴られた。」として、左胸部及び左眼瞼部の痛みを訴えられたこと、控訴人に対する所見としては、「左眼瞼下出血(+)、腫脹、左第八、第九肋軟骨部分敏感、亀裂?」(診療録の記載)が認められ、これに対する処置として、左胸部レントゲン写真を撮り(その結果、骨折は判明しなかつた。)、左胸部にゼノール湿布をし、痛み止め注射、眼帯を施し、内服薬六日分を投与したこと、同医師は傷病名を左眼窩部、第八、第九肋軟骨部打撲傷と診断したこと、その後控訴人は同月二四日以降三月一三日まで中西医師の診断を受け(実日数一二日)、湿布、痛み止め注射を主とする処置を受けたこと、同医師は三月一三日控訴人から左こめかみ部の疼痛を訴えられたので、該部分に湿布を施したことが認められる。右傷害のうち左第八、第九肋軟骨打撲が阿南巡査の胸部蹴り上げの暴行の結果であると認めて不合理でないことは明らかである。また、左眼窩部打撲は阿南巡査が控訴人の左前頭部辺りを殴打したことによるものと認めることも矛盾、背理ではなく、むしろ、左前頭部辺りを警棒で三、四回殴打されたという場合に生体に発生する傷害の部位、程度は個別の事態に照応して多様であり、左眼窩部打撲傷も起りうる結果の一つとして肯定すべきであると考えられる。なお、<証拠>によれば、昭和四五年一月二三日夕方控訴人が帰宅したとき、妻清子がみると、控訴人の「右顔面部」(それは、清子の側から向つて右という意味で、医学的には左となろう。)が赤紫色に腫れ上り、幽霊のような外貌を呈しており、左眉の上にも少し血がにじみ出ていたことが認められるが、このことも控訴人に警棒による打撃が加えられたことを推測する一つの手がかりとすることができる。
(2) 後遺症との結び付き
<証拠>によれば、控訴人は町田警察署より帰宅した昭和四五年一月二三日ころから臭覚を失い、鼻血が出、左耳及び鼻腔から水液が漏出し、左耳からの漏出は一五日位で止つたが鼻血はしばらく続き、鼻腔からの水液漏出はなお継続したこと、控訴人は中西医師の勧告に従い、昭和四六年九月国立相模原病院耳鼻科で診察を受け、検査の結果、前記鼻腔からの水液漏出は随液漏出であることが認められたことから、脳神経外科に転科し、同年一〇月一三日手術を受けたこと(執刀者訴外堀智勝医師)、手術所見では、左臭神経が離断しており、右臭神経にも変性がみられ、篩骨板の部分の硬膜が欠損していることが判明し、かなり強力な外力によつて前頭蓋底が骨折し、臭神経にも剪断力が加わつたために、硬膜の欠損及び左息神経の離断を招き、前者により随液鼻漏を、後者により臭覚喪失(麻痺)を生じたものと診断されたこと、右手術後控訴人の随液鼻漏はしばらく止つたが、再発して現在に及んだことを認めることができ、<証拠>によれば、警棒による左前頭部の打撲を前記外力と認めることは不合理でないものと判断される。
<証拠>によれば、控訴人は昭和四六年二月一日中西医師の再診を受け臭覚喪失を訴え、同年七月一〇日臭覚喪失及び鼻出血を訴え、同医師より耳鼻科医による診察をすすめられたことが認められ、他面、控訴人が中西医師に対し鼻腔からの水液漏出を訴えた証跡がないが、<証拠>によれば、臭覚喪失は患者がこれを自覚し、かつ重視して医師に訴えるかどうかはその知性などによつて差異があること、随液鼻漏は素人にとつて鼻水と明瞭には区別できないことが認められ、また、鼻血についても、その頻度、数量などのいかんによつては、これまた患者が医師に訴えないことがありうるであろうから、控訴人が臭覚喪失と鼻出血を前示時期になつてはじめて中西医師に訴え、随液鼻漏についてはこれを訴えなかつたとしても、これらの疾病の発症時期に関する上記の認定を左右するものではない。また、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第一九号証(訴外内藤道興医師の意見書)中前記の結論に反する部分は採用できない。
(3) 他の原因の可能性について。
控訴人の被つた傷害が控訴人が自転車もろとも道路上に転倒したことによるものと推認できる資料は見出せない。
また、前掲乙第一九号証には、医師中西良孝の診療録の昭和四五年一月三〇日の項に、「(右上腕の上外方に銃弾による痛みあり、後に摘出)」という記載、同年三月一三日の項に、「(右項部に銃創異物迷入、左前腕と肩部にも)」という記載があるところから、控訴人は「過去に恐らく銃創乃至は砲弾の炸裂等による爆創を受けたものと考えられ、その一つが略々後下方から進入し、飾骨部を貫通して、左前頭蓋窩に達し、その際左嗅神経(嗅索)を損傷し、更に大脳左前頭葉内に迷入した公算が大きいと思われ、脳波にも異常を来したと考えることができる。」旨の所見の記載が存する。そして、<証拠>によれば、控訴人は軍隊生活の経験があることが認められ、また、<証拠>によれば、昭和四六年当時控訴人の脳波検査で軽度の異常が認められたことが明らかであるが、もし前記所見のとおりであるとすれば、特段の事情がない限り、控訴人は本件以前に臭覚の喪失ないし減退をきたし、また、髄液鼻漏の症状が出てしかるべきところ、<証拠>の既往症欄にはそのような記載はなく、また、<証拠>によれば、昭和三三年控訴人と結婚した妻清子も控訴人の健康について特別懸念した点はなく、臭覚などはむしろ敏感すぎるほどであつたことが認められる(乙第一九号証の作成者である内藤医師は甲第一八号証を審査の資料とし、証人深沢清子の証言調書は資料としていないこと乙第一九号証の記載により明らかである。)から、乙第一九号証記載の所見を採用することはできない。
(4) 以上の次第で、控訴人の傷害の部位、程度からみても、阿南巡査が控訴人に対し前認定のような暴行を加えたと認めることは相当であるというべきである。
叙上のとおり後藤、阿南巡査の控訴人に対する暴行の事実を否定することができないところ、両巡査は控訴人をでい酔者として扱い、これに対し、控訴人が示した抗議、抵抗に対し過剰な反撃として右暴行に出、これにより控訴人に前記傷害を被らせたものである。被控訴人が主張するようにことが推移、進展したとの点については、当裁判所の措信しない後藤、阿南両巡査の前掲供述ないし供述記載のほかにこれを認めうる適確な証拠はないから、両巡査の行為が正当な職務行為の範囲に属するとする被控訴人の主張は採用できない。
第二被控訴人の責任
後藤、阿南両巡査がいずれも被控訴人の公権力の行使に当る公務員であることは当事者間に争いがなく、前記第一の一の認定事実によれば、両巡査はその職務を行うについてすくなくとも過失により共同して違法に控訴人に対する加害行為に及んだものであるから、被控訴人は国家賠償法一条一項の規定に基づき控訴人に対し損害を賠償すべき責任がある。
第三損害
一医療費
弁論の全趣旨によれば、控訴人は前記傷害のため医師中西良孝、国立相模原病院の医師訴外石川岩男らの診療を受け、これに要した治療費はすくなくとも六万五〇〇〇円であつたことを認めることができ、右認定を左右するに足る証拠はない。
二逸失利益
1 <証拠>によれば、控訴人は本件事故当時造園業を主たる職業とし、あわせて宅地建物取引業者である訴外千代田不動産株式会社に籍を置いて同社の営業を手伝つており(ただし、控訴人自身は宅地建物取引業の免許を有していない。)、昭和四四年中の造園業の売上額は三〇一万五〇〇〇円、純益はその三割に当る九〇万四五〇〇円であるが、控訴人は前記傷害のため医師から安静な生活を指示され、従前の職業に就くことができなくなつたことを認めることができ、右認定を左右するに足る証拠はない。
2 控訴人は昭和四四年中に土地売買あつ旋料として実質所得約一六〇万円以上を得ていた旨主張し、同年中控訴人に対し土地売買仲介の手数料ないしそれに類似する名目で金員を支払つた旨の第三者作成名義の支払証明書が甲号証として提出されているが、控訴人が前記会社に籍を置いてどのような仕組みで収入を得ていたか証拠上判然とせず、当該金員の額(概算一二〇〇万円)と控訴人主張の実質所得額との関係も不明瞭である。仮りに控訴人が右会社の手伝いとしての立場を離れ、個人としてした仕事によつて右手数料などを取得したものであるとしても、造園業を本業とし、右会社の手伝いをしていた控訴人がはたして個人として当該金額に相当するだけの仕事をする余地があつたか疑わしい。控訴人の昭和四四年中の造園業と不動産関係の仕事の売上は五〇〇万円位あつた旨の<証拠>も信用できない。したがつて、控訴人に不動産関係の仕事による収入があつたことは否定できないが、その額を確定できないので、控訴人の逸失利益は造園業による収入を基礎とするほかない。
3 そして、控訴人の逸失利益の損害額は控訴人の請求する三か年分のうち昭和四五年は一一か月分八二万九一二五円、昭和四六年は一か年分の収入額九〇万四五〇〇円から控訴人の自認する生活扶助金(<証拠>によれば、生活保護法による生活、医療、教育、住宅扶助である。)七六万円を差し引いた一四万四五〇〇円となる。昭和四七年については控訴人の自認する生活扶助金一二七万二〇〇〇円は得べかりし収入額を上廻り、損害額は零となる。以上の損害額の合計は九七万三六二五円となる。
三慰藉料
上来認定した事実関係によれば、控訴人が後藤、阿南両巡査の不法行為により精神的苦痛を被つたことは明らかである。よつて、損害額について判断するのに、右事実関係によれば、控訴人は本来市民の身体保護に任ずべき警察官からでい酔者と速断されて保護される際、些細なことから暴行を加えられ、これにより傷害を被り、重篤な後遺症を有することとなり、このため、従前の職業に従事することができず、生活保護を受けることを余儀なくされたものである。のみならず、<証拠>によれば、右後遺症のうち臭神経麻痺は回復不能と見込まれており、髄液鼻漏は漏出が時々生ずる程度であれば痴呆あるいは精神機能廃絶をきたすおそれはないが、脳膜炎を起す可能性は通常人の数千倍もあるため、再手術の必要があるが、それによつて完治することは保し難いことが認められ、控訴人の将来に対する不安は多大なものと推察される。また、<証拠>によれば、控訴人の妻清子は昭和五四年九月一五日急死し、控訴人は男手一人で七人の子供を抱えることとなつたことを認めることができる。叙上の諸事情を総合すれば、警察官の暴行が控訴人自ら相当酩酊していて、警察官の処遇に対し無用に反発抵抗したことによつて誘発された一面があることを考慮しても、控訴人の精神的損害額は四〇〇万円を下らないものと認めるのが相当である(控訴人は、慰藉料額を三六〇万円と主張するが、慰藉料額の算定自体については当事者の主張に拘束力はなく、その限度で弁論主義の適用の外にあると解される。)。
四過失相殺について。
被控訴人は、控訴人の左胸部打撲の受傷は控訴人の過失が主要な原因となつたものであるから、賠償額の算定について右過失を斟酌すべきものであると主張するが、控訴人が右傷害を被るに至つた経緯に関する前記第一の一、2認定の事実に徴すれば、控訴人の受傷に寄与したと評価するに足る過失を肯認することはできないから、被控訴人の主張は採用できない。
五弁護士費用
<証拠>によれば、控訴人は前訴訟代理人に対し本訴の提起追行を委任し、着手金五〇万円を支払い、かつ、いわゆる成功報酬として認容額の一割に相当する金額を支払うことを約したことが認められる。その後右訴訟代理人は原審の訴訟係属中辞任し、現訴訟代理人が受任したことは記録上明らかであるところ、右約定の主張がそのまま維持されていることに徴すれば、控訴人と現訴訟代理人との間においても、右約定と同一内容の約定が黙示的に締結されたものと認められる。してみれば、控訴人は前記一ないし三の損害賠償額小計五〇三万八六二五円の一割に相当する五〇万三八六三円及び着手金五〇万円の合計一〇〇万三八六三円の弁護士費用相当の損害を被つたものと認められる。
第四結論
以上説明したところによれば、被控訴人は控訴人に対し、前記第二の一、二、三、五の損害賠償金合計六〇四万二四八八円及び内金五〇三万八六二五円に対する不法行為の日である昭和四五年一月二二日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅滞損害金を支払うべき義務がある。
したがつて、控訴人の本訴請求は右金員の支払いを求める限度において認容すべく、その余は失当として棄却すべきであるから、右請求全部を棄却した原判決に対する本件控訴は右金員の支払いを求める請求を棄却した部分に対する不服の範囲において一部理由がある。よつて、原判決を変更することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九二条、九四条、第一九六条を適用して主文のとおり判決する。
(蕪山厳 浅香恒久 安國種彦)